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言葉選びも思いやり
プロの非対称生
プロにはかなわないって。
歴史の巨人たちの作品を模倣しようとするとわかる。
圧倒的なクオリティ。とてつもない壁をそこに感じる。
プロをなめてはいけない。
そういうことを大事にしていくことが最近軽視されている。
アマチュアが自らの実力を過信している。
大変なことだよ。
コンセプト
コンセプト、コンセプトっていうが
コンセプトはとても大事なのだけど、じゃ、なんでもかんでもコンセプトを決めればそれでいい作品って訳ではない。と思う。
そのコンセプトで、どや顔されても、それが見る側の人間とどう関係するまで考えないといい作品ではないと思う。
コンセプト決めて、そのコンセプトが伝わったとしてもそれで人が動かなければ意味が無い。
それで?って思われたら意味が無い。
難しいのだけどね。
四六時中できること
何かお笑いの番組で「まぁそんなにグラフィックデザイン四六時中欲しくないよね!」というような話があったようだ。
僕だって四六時中は嫌なことは多い。
映画を四六時中は嫌だし、お笑いも四六時中は嫌だし、スポーツも四六時中は嫌だし。
好きなもの以外は、なんだって四六時中は嫌だよ。でも四六時中できるものを持ってる人がいるから社会が豊かになる。
僕がたまに、なにか空想の世界に浸りたくなったときに新たな素晴らしい世界を見せてくれる。
僕が腹のそこから笑いたくなったとき、本当に愉快にさせてくれるお話をしてくれる。
僕が熱い闘志を感じたくなったときに息の詰まる闘いをみせてくれる。
それができるのはそれらを四六時中している人々がいるから。その人たちが僕たちの代わりに四六時中それをしてくれたおかげ。
それを笑う人間はそのすべてを享受する資格はない。
ひとりでヘラヘラしていれば良い。何もない人生を歩めば良い。
僕は、自分が四六時中できることでこの世界を豊かにできるなら、このうえなく嬉しいことはない。
そう思うのだけどなぁ。
価値 続
コミニュケーションは価値と価値との交換だ。
価値って、別に目に見える物質である必要でもなくて、有益な、誰も知らないような情報でもある必要でもなくて、感情って場合もある。
楽しい とか 幸せ とかそういう感情でもぜんぜんいいということを最近学んだ。
有益な情報でないといけない。
より希少価値のある、物理的物体でないといけない。
そう思い込まされて、それを手に入れるため、常に先頭を走り続けなければならないと思い込んでいた、一人になる恐怖に怯えて。
しかし、別にそれだけが方法ではないことを学んだんだ。
もともと自分に備わっているもので、ぜんぜん事足りるのだ。それを知って、とっても気持ちが楽になった。恐怖心から解放された。
シコリ
気にしていないと思っていても、心の何処かで気にしているのだろうか。精神的な問題。
取り除くべきなのだろうか、やはり。
14歳からずっと悩んでいる。
ずっと。