顔でかいからや。
先生の責任
小学生のころ、人物のディフォルメされた表現の仕方に参考になる作品をみて、担任の先生に、これを真似しますっていったら著作権がどうのこうの説教された。 今になって思うのは、その先生は全ては模倣から生まれてんのを理解していないってこと。
幼い頃は、ものすごく訓練された人が先生になっているかと思ったが、成長するにつれわかることは、先生もまったく自分たちとそうそうかわらない同じ人だということ。 とくに小、中、高校の先生なんてなは、なんの専門性も無いのに何か決定的な影響を与えてしまいかねない。 これは恐ろしいこと。
ものすごく恐怖感を覚えるしか無い。その先生の勝手な価値観ですべてをぶち壊してしまう。
子供たちの無限の可能性を。
”見えていないもの”
”見えていないもの”を”見えていないのでは?”と、疑わないとそれを”見る”可能性を産むことができない。 しかし、これはかなり困難なことで、なぜなら”見えていないもの”がそもそも”見えていない”のだから”見えていないのでは?”という疑問を抱くことすらできないからだ。
でもこの”見えてないもの”に飛躍する本質が詰まっている。 だから、常に”見えてないものがある”と疑わないかぎりいつまでたっても”見えていないもの”が、”見える”ことはできないんだ。
自信
僕は他人のいいところは結構褒めるタイプだと思う。自分が怒られて萎縮してしまう経験が多かったからかな。
しかしここで問題なのは、それが自分のはないと感じている人だ。
ないと感じている人は、ただでさえ自分の存在の社会に対しての関係性、必要性、必然性が低いと感じているにもかかわらず、その上でなおも否定されるようなことをいわれでもしたらすべてがゼロになる。それは死と同じ恐怖感なんだ。
理由
僕のものをつくるということに対して、結局いいとか悪いとか絶対的なものはなくて、見る人、作る人の価値観に左右される、言ってみれば全部いいし、全部悪いということに気がついた。
僕は今まで、これが絶対正しいんだという熱さや熱意、そういうものでもの作ってたけど、このことに気付いて、それが無くなってしまった。
だっていいも悪いもないから。
だから、手が動かなくなってしまった。
やっとわかった。